靴の話

起きたら始業1時間半前だった。
夫も私の目が覚めたのと同時に目を覚ました模様。
しかし私はとにかく三十分後に家を出なければならないのと、
夜中のうちに回していた洗濯機から洗濯物を干さなければならないという使命も残されていて、
その上相変わらず昨日のスパッゲッティー茹ですぎ事件とか、
久しぶりに見た夢が物凄い悪夢だった、とか色々な事が積み重なって不機嫌だった。
夫は空腹に耐え切れなかったのか、一人でせっせと台所に向かっている。


すでに電車の時刻が7分後に迫っているというのに
私はまだ家を出る事が出来ずにベランダで洗濯物を干していた。
電車来るけどこのまま洗濯機に洗ったもの残しっぱなしで行ったら臭くなるし、
みたいなかんじであたふたしていると夫が、自分が後はやるから飯を食って仕事へ向かえ、
と珍しく良い夫を演じている。
でも私はご飯食べるなんてそんな時間はない、とつっぱねて、
夫がそんな風にのんきに平日の昼とかにぽや〜っとしてる感とか、
でも私は仕事へ向かうのに家事もやらなければならなくて、とか色々不機嫌だった。


夫の、後は自分がやるから、という言葉を皮切りに
私はベランダから玄関に猛ダッシュして、最後に忘れ物確認をして靴を履こうと玄関で腰掛ける。
どの靴を履こうかと自分の靴を見渡したら、
自分の靴の目に余る常態の悪さに、そして履く靴の無さに、
突然涙が込み上げてきて全くそんなつもりじゃなかったのに、
つい1秒前までは仕事に間に合うつもりで一生懸命だったのに、
持っていた家の鍵と自転車の鍵と鞄とカーデガンとを投げ出して、
涙が溢れ挙句に嗚咽までする始末。


こんなのもう嫌だ。
仕事してもお金はいっこうに貯まらないし、
貯まるどころかむしろ貧困で、買いたいもの買いたいとまでは言わないけど、
買わなくてはいけないものもろくに買えないし、
こんなに思ってる夫はのんきに我が道を行ってるし
どうしてこううまくいかないんだろう。
私の服がないとか靴がないとかはまだよくて、
夫の方が私のなんかよりももっと状態悪いし着る服も履く靴もなくて、
私なんかよりずっと見てくれもいいから新しい服とか靴とか買ってあげられたら
喜ぶだろうし何よりずっと有益というか、似合うだろうなぁとか
思ったらなんか本当にもう何もかもが嫌になって、
そんな事を一瞬の間に頭を駆け巡って玄関でうずくまった。


行ってきます、とバタバタ走ってったはずの私が玄関で固まってるのに気付いて夫が駆け寄ってくる。
どうしたの?と心配する夫に、
「履く靴がない。」
なんて事で泣いてるなんて我ながらバカバカしくて告げられない。

それでもどうしたの?仕事は行かなくていいの?どうして泣いてるの?
とやつが優しく声かけてくるもんで、
泣いてる時に優しくするのは逆効果で寧ろ涙を止められないでいた。
それでやっと、「履く靴が無い」って言ったら、
笑われるだろうと思ったのに、「うんうん」と聞いてくれる。
「ただ靴がないだけじゃなくて、履く靴考えてたらどれも汚くて履きたくなくて、
 そしたらどうしてこんなに生活苦なんだろうと思って、昨日は凄く嫌な夢を見たし、
 体は疲れてなくても考えすぎで頭が疲れていて、色んな事が駆け巡って涙が出てきた。」
と言ったら、
どうしてそんなに色々自分一人で抱えようとするんだ。
何故なにかあった時、何か辛かったり考えても分からない時その時に自分に話さないんだ、
ひとつひとつ自分に話してごらん、といって手をひかれて部屋に戻る。


ほら、ご飯おいしいよ、なんて言われて泣きながらだけどとりあえず無理矢理ご飯食べさせられる。
夫のたまに作ってくれる飯は美味しい。
まるでこれじゃ歳の離れた兄にあやされている小さな子供だな、と思いながらも、
いつもはバカバカしかったり子供じみていて話すにも値しないだろう、という事を全部吐露した。
まるで相手に気を遣うとか、こんな事言ったら自分がどんな風に思われるとかを気にせず、
とても図々しく心行くまで甘えきってしまった自分。
いいんだろうか本当にこれで。
こんな風に私を受け入れてくれる人間を見つけてしまったら、
私は一人でなんか生きていけなくなってしまう。
この人は私からそういった力を奪ってしまったようだ。
その責任は取ってくれな(我ながら怖い)。


なんだか体から力という力が涙と共に流れ出てしまったようで、
立ち上がる気力もない。
でも仕事には行かなければならないので、車で送ってもらう。
お礼に途中のコンビニで夫の大好きな缶コーヒーをごちそうする。
そして夫が車内でずっと小さい頃の昔話をしてくれた。
そして靴なんて俺が10足今度買ってやるから、って言う。
いや、だから、靴がないのは事実だしそれはそうなんだけど、最早どうでもいいっていうか、
どうも有難う、とだけ伝えた。



そういうわけで心穏やかに仕事へ向かえたのである。