私達の展望


一昨日、仕事から帰ってくると、
部屋にあるテーブルの上に、乗り切らないくらいに見慣れない物が置いてあって、
「これ全部○○ちゃんの。」
というノートの切れ端に書かれたたどたどしい日本語のメッセージ付きの、それは夫から私へのプレゼントだった。
最近お互いの仕事ですれ違い生活が多かった事へのお詫びだったらしかった。



夫が私を傷付けるモノから、私に触れるモノから、何があっても私を守る、と言った。
私に手を伸ばそうとするものがあったならそいつの首を斯き切る、と言った。
しかし生憎私はそういった事をする気などこれっぽっちもないし、
生憎それくらいの事からぐらい自分で自分の身は守れる。
どうしようもなく私が気を揉んだりするのは皮肉にも夫の事だけだったし、
私の幸せを願うなら君が私を幸せにしてよ、とか思うのだった。


私も夫も熱情的な人間だ。
おまけに頑固でプライドが高くて自分で自分の事を賢いと思ってる。
熱情的で一方的な感情は相手を束縛するだけで、
好転するばかりか破滅の道へと導くのを知っていたので、
私は距離を持って彼と接するようにしている。
大抵の事は自分自身で解決できるし、彼の力を借りずに自己処理してきた。
だけど耐え難い事があると夫にぶちまけるのを得策とは思わず、
その一方で自分一人で抱えるには重過ぎて、
いっその事この脳みそとこの心がなければどんなに楽だろうかと本気で思って、
色んな衝動に駆られる事がある。


それは夫も同じだった。
彼も自分の問題や思いを逐一私に報告したりなどはしない。
二人で過ごす時は生産的な話をしたいし、なるべく笑って過ごしたい。
もちろんストレスフルな事があればそれを共有して二人で分け合って、
嬉しい事があればそれを共有して倍にする。
それがきっと恋人と夫婦の違いっていうものだって事を最近知った。
家庭とは、まさに築くものであって、
「夫」と「妻」がいるという事実そのものだけで成り立つものでは決して無い。
恋人の時みたいに楽しければそれでいい、みたいのとも全然違う。
一緒に生きる、一緒に暮らすという事は現実味を非常に帯びた恋人時代に描いた物とはかけ離れたものである。少なくとも私にとっては。
ただし考えようによっては、その生々しく夢や希望とはかけ離れたリアルライフそのものが
実は物凄く夢や希望に溢れたものであるかもしれないと一方では思う。
夫の帰りを家で待つのも、夫の洋服や下着を洗って天日に干す行為も、
夕飯の献立を考えながらスーパーに出掛けるのも、夫の靴下を私が買う事も、
すごく大衆的で典型的で世俗的でなんの特別なかんじもしない普通の事がきっと特別なんだと思う。
すごく小さな事で喜べるのであればもうそれだけで人生万々歳なんではないかと思う。


夫は私を死ぬまで幸せにするよ、なんて契約を掲げない。
嘘であっても、嘘じゃなくても喉から手が出るくらいに欲しい言葉だけど
それは全て自分がユルリヌルリと生きる為。そんな言葉貰ったら努力しなくなる。
どちらかがどちらかを省みなくなったらその時私たちの関係は終わる。
もしかしたら死ぬまで私達は一緒かもしれないし、
もしかしたら数年後にはお互いが何処で何してるかも分からなくなってるかもしれない。
私たちは結婚という形を選択したけれどもその形自身に縛られるような関係では決して無い。
だけどきっと彼を想っている限りは終わらないという事を知っている。
彼は自分を愛する人間を置き去りに出来るほど非情でも強い人間でも無い。
だから二人の終わりの事は、考えないようにしている。
終わりを考えたら全てが虚しく哀しくなるから。
だってそうでしょ。
私はいつかこの人の子を産みたいと思っている。
そんな風に思ったのは生まれて此の方初めての事で自分自身でも信じられない。
私にも、大方の女性が思ってきたように子孫繁栄の願望があっただなんて。
だから私は夫から自分の子を産んでくれ、という申し出があるまで待つ。
後一歩の所まで来てはいるが、私達はまだ若すぎるし早すぎる。
時間の流れが私達を何処へ導いてくれるのか。
まさに神のみぞ知る、である。