彼が彼を殴った日


不機嫌ではなかった。
早朝に帰ってきた彼は、とにかく疲れている様子で、
気を抜くとボーっと何か思い耽っているようだった。
いつものように、特に問い掛けるような事はしなかった。
話したければ話すだろうし、話したくない事を
無理に話させるような事もしない。
ただ待っていた。


「今日、君が言っていた男達全部に会ったよ。」
咄嗟に耳を塞いだ。
聞きたくなかった。
その内、一人には自分の名を告げ、自分の顔をよく覚えとけと伝え、
もう一人には、初めて会ったにも関わらず、
一緒にどこかへ行こうと誘い出し、
静かな場所へ連れて行き、
車から引き摺り降ろして思い切り殴ったと。
そして家のドアの前に下ろして来たと。


彼の一挙一動を想像して、彼が彼を殴り続けている時に、
私の何を思ったのかを想像して心が痛かった。
殴られた彼は彼に向かって、
助けを乞うたという。
しかし彼は無言で復讐し続けたと。
一年前の今頃、こんな事になるとは誰が考えただろう。
誰が誰を傷付けたかなんてもうどうだって良かった。
ただそこにあるのは憎しみだけだった。
私を赦す事が出来ないその気持ちが憎しみとなって表れた。
その光景を思って心が痛かった。
私自身がどう思ったか、感じたかなんて問題じゃなかった。
一心不乱となって彼に憎しみを露わにする彼を想像して痛かった。
涙が止まらなかった。
淡々と話す彼が怖かった。
堪らなく駆け込んだ浴室で泣いている私を抱き起こして、
部屋まで連れて行き、
何故泣いているの、泣く事なんてないよ、と笑った。
呼吸もろくに出来ない位、嗚咽しながら泣く私の涙を
彼は親指でそっと拭って頬に口づけた。
自分の為じゃない、君の為にやったんだと彼が言った。


私に心が無ければ、
このすべての感情が麻痺してしまえば
どんなに楽だろうと思った。
どうやってもやっぱりここへ行き着いてしまうなら
この先私はどうやって生きていったらいいのですか、と
空に問うてみるものの答えは返ってくるはずも無く。
私が彼を愛するという事は、
そんなに難しい事ですか。
どうすれば、どうやればこの苦しみから解放されるのですか。


誰も答えなんか知らない。
もはや悲劇のヒロインとでも云わんばかりの
悲しみへの浸りっぷりを、
自分で自分で嘲笑うことすら出来ない。


誰かを愛するという事はとても難しい事なんだよ、と彼が言った。